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2110年。
食事は栄養の問題ではなく、
最適化の問題になっていた。
食材はAIが配合し
不足栄養は自動追加され
温度も最適化され
咀嚼回数に合わせ味調整される。
「補完食パック」が家庭では主流。
味も栄養値も完璧だった。
しかし、心は満たされなかった。
◆ 葵の母は違った
母は朝から
味噌汁を作った。
乾燥わかめ
豆腐
刻んだネギ
普通のお湯。
味は毎日違う。
塩が強い日。
薄い日。
出汁が濃い日。
何か物足りない日。
でも湯気が立っていた。
葵は聞く。
「AI食パックの方が栄養合ってるよ?」
母は笑う。
「栄養は“体の安心”。
湯気は“心の安心”なのよ」
◆ 葵は理解できなかった
正確に整った食事のほうが
手間もかからないし
効果もわかりやすい。
なぜわざわざ
沸騰させ
味が不安定なものを作るのか。
しかしある日
葵は仕事で疲れて帰宅した。
机に湯気が立つ碗。
葵は手を伸ばす。
湯気が指の間を抜ける。
その瞬間
急に涙が出た。
◆ 母は言う
「湯気ってね、
温度がまだ逃げ切ってない証拠なの」
葵
「逃げ切ってない?」
母
「味噌汁は、飲まれることを前提に温められるから。」
言葉が不思議に胸に残った。
◆ 翌日
AIパックの味噌汁を試す。
温度は一定。
味は完璧。
湯気は出ない。
飲んでも
どこにも触れない。
同じ塩分
同じ栄養
同じ旨味。
でも
記憶に残らない。
それは完成した液体だった。
◆ 夜
母の味噌汁。
湯気は少し弱い。
味は濃い。
豆腐が崩れている。
でも葵は思った。
「味噌汁は栄養じゃなくて
存在を受け取る時間なんだ」
湯気は
“逃げる最中の熱”だ。
つまり
まだ過程の中にある。
葵はゆっくり飲む。
呼吸が落ち着く。
AI調整ではない温度は
主体的に飲む速度を決めさせてくれる。
葵は気づいた。
完成しているものより
逃げている途中のもののほうが
共有できる。
◆ 葵のメモ
その夜、書いた。
「湯気は、完成直前の揺らぎ。
その揺らぎを味わうのが、食事だった。」
湯気は消える。
だから香る。
だから急ぐ。
だから温度が伝わる。
未来の食事から
失われていたものは
「一時性」だった。
湯気は
一時的だから価値がある。
そして葵は笑った。
「栄養より体験が残る日もあっていい」
――第3話 完――
次は
第4話 紙で書いた手紙
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