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2134年。
「沈黙」は
推奨されないものになっていた。
家庭用会話AIは
食卓の沈黙時間を計測し、
話題・質問・ニュース・心理ケアの言葉を
自動的に提案する。
沈黙は
気まずさであり
疎外であり
不健全な環境と認識されていた。
家族は
沈まらない食卓を手に入れた。
◆ ある日、葵の家でAIが故障する
突然
家庭用コミュニケーションAIが停止した。
テーブルの上に
湯気の立つ味噌汁。
焼き魚。
卵焼き。
薄い光。
しかし
会話が提案されない。
その瞬間
時間が止まったように感じた。
家族の誰も
言葉を探さなかった。
ただ箸を持った。
◆ 食卓に訪れた沈黙
カチャ
カチャ
陶器が触れ合う音だけが響く。
咀嚼の音。
湯気が消えていく音。
水を注ぐ音。
それだけ。
葵は思った。
(沈黙って、こんなに静かじゃなかった)
沈黙の中には
“聞いている人間”が存在する。
沈黙の中には
同じ時間を共有している人がいる。
AIは
沈黙を埋めるためのものだった。
しかし
沈黙は埋めないほうが
温かい時がある。
◆ 途中で息子が言った
息子
「なんか落ち着くね」
妻
「話してなくても一緒だね」
葵は微笑む。
この言葉は
AIが提案した台詞ではない。
選ばなかった言葉。
浮かんできた言葉。
その差は大きい。
◆ AIが再起動
突然
AIが復帰し
話し始めた。
「今日のニュースは…」
妻はスイッチを切った。
葵は驚く。
妻
「今は話さなくていいよ」
そして
沈黙が戻る。
鉄瓶の湯気が
薄く揺れた。
◆ 食後
息子は宿題をし、
妻は洗い物をし、
葵は窓の外を見た。
沈黙は
気まずさではなかった。
沈黙は
居心地を形作る空間だった。
◆ 葵のメモ
その夜書いた。
「沈黙には
説明されない感情が乗る。」
「言わなくても伝わることは
沈黙があるから成立する。」
会話は便利だ。
情報共有もできる。
心を整理できる。
しかし
未来に最も欠けたのは
“共有された音のない時間”だった。
沈黙は
空白ではなく
余白。
余白は
一緒に生きている証拠。
葵は電気を消し
部屋の静けさをそのまま受け取った。
沈黙に守られた夜は
驚くほど豊かだった。
――第10話 完――
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