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2124年。
傘は、すでに「傘」ではなかった。
雨量を検知し
風向を逆制御し
濡れる可能性のある角度へは
自律調整。
人は傘を差しているだけで
濡れない。
傘が守ってくれる時代だった。
◆ 葵の職場での出来事
帰宅時、突然の豪雨。
周囲の人々は
自動防水傘が頭上で静かに展開し
雨粒は瞬時に弾かれた。
しかし葵の傘だけ違った。
父の遺品。
骨が一本曲がっており
布は薄く
縁はほどけている。
それを葵は修理せず
そのまま使っていた。
◆ 歩き始める
雨は激しく
風が横から吹きつける。
曲がった骨の隙間から
雨が入り
肩と腕が濡れる。
最適化された傘の人々は
濡れない。
葵は濡れる。
傘は守りきれない。
それを歩きながら
なぜか葵は笑った。
◆ 濡れるという当たり前
幼い頃
父と歩いた。
雨の日
父の傘は
やっぱり穴が空いていた。
父は笑って言った。
「濡れるって、悪いことじゃないぞ」
葵はそれを
ただの強がりだと思っていた。
しかし
今は少し違って聞こえる。
“濡れる”は
防がれない現象。
防がれないことは
不完全。
不完全は
自分に返ってくる。
体が冷える。
服が重くなる。
歩幅が変わる。
それを選んだ自分が存在する。
◆ AI傘が葵に話しかける
通りすがりの人物の傘が言った。
「濡れ感知。交換をおすすめします」
丁寧な勧告。
だが葵は断った。
「ありがとう。でも大丈夫。」
不合理な選択。
けれど
そこに意思があった。
◆ 夜、濡れた服を干す
玄関に濡れた傘を開き
水滴が落ちる。
床に落ちたしずくが
丸い跡を作る。
それをタオルで拭く。
その作業が
思い出になった。
濡れなかった未来では
この時間は存在しない。
不必要に思える時間ほど
心に残る。
◆ 翌朝
濡れた傘は乾いた。
しかし
骨は曲がったまま。
葵は直さなかった。
“直らないこと”が
その傘の形だった。
父が使っていたときの
時間の痕跡。
破れていない
完璧な傘では
たどれない記憶。
◆ 葵のメモ
その夜、書いた。
「濡れるという出来事は
自分で受け止める小さな不便。」
「守られないことが
主体性を返してくれる。」
破れた傘は
人を濡らす。
けれど
人は濡れながら歩くことができる。
濡れなかった時間では
残らない実感が
そこにあった。
――第7話 完――
次は
第8話 間違う地図
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