シンプルな未来で生きる10の話

第7話 壊れた傘

2124年。

傘は、すでに「傘」ではなかった。

雨量を検知し
風向を逆制御し
濡れる可能性のある角度へは
自律調整。

人は傘を差しているだけで
濡れない。

傘が守ってくれる時代だった。


◆ 葵の職場での出来事

帰宅時、突然の豪雨。

周囲の人々は
自動防水傘が頭上で静かに展開し
雨粒は瞬時に弾かれた。

しかし葵の傘だけ違った。

父の遺品。

骨が一本曲がっており
布は薄く
縁はほどけている。

それを葵は修理せず
そのまま使っていた。


◆ 歩き始める

雨は激しく
風が横から吹きつける。

曲がった骨の隙間から
雨が入り
肩と腕が濡れる。

最適化された傘の人々は
濡れない。

葵は濡れる。

傘は守りきれない。

それを歩きながら
なぜか葵は笑った。


◆ 濡れるという当たり前

幼い頃
父と歩いた。

雨の日
父の傘は
やっぱり穴が空いていた。

父は笑って言った。

「濡れるって、悪いことじゃないぞ」

葵はそれを
ただの強がりだと思っていた。

しかし
今は少し違って聞こえる。

“濡れる”は
防がれない現象。

防がれないことは
不完全。

不完全は
自分に返ってくる。

体が冷える。
服が重くなる。
歩幅が変わる。

それを選んだ自分が存在する。


◆ AI傘が葵に話しかける

通りすがりの人物の傘が言った。

「濡れ感知。交換をおすすめします」

丁寧な勧告。

だが葵は断った。

「ありがとう。でも大丈夫。」

不合理な選択。

けれど
そこに意思があった。


◆ 夜、濡れた服を干す

玄関に濡れた傘を開き
水滴が落ちる。

床に落ちたしずくが
丸い跡を作る。

それをタオルで拭く。

その作業が
思い出になった。

濡れなかった未来では
この時間は存在しない。

不必要に思える時間ほど
心に残る。


◆ 翌朝

濡れた傘は乾いた。

しかし
骨は曲がったまま。

葵は直さなかった。

“直らないこと”が
その傘の形だった。

父が使っていたときの
時間の痕跡。

破れていない
完璧な傘では
たどれない記憶。


◆ 葵のメモ

その夜、書いた。

「濡れるという出来事は
自分で受け止める小さな不便。」

「守られないことが
主体性を返してくれる。」

破れた傘は
人を濡らす。

けれど
人は濡れながら歩くことができる。

濡れなかった時間では
残らない実感が
そこにあった。


――第7話 完――


次は

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